日常をブログで書き留めることはどちらかというと苦手だ
私はどちらかというと毎日ブログ(日記)を書き続ける行為は得意ではない、夏目漱石や太宰治などの多くの文豪などは、日記の厚さが枕になるような文字数を残してたがそれに比べると言葉として残すことに関しては知ではない。
問題点
自分の人生を赤裸々にする必要性
昔の文豪ならば・・・「隣の姉ちゃん可愛かった///好き。」とか「昨日、手を洗わずに寝たら腹を壊した」とか、必要ないことさえも「一言日記」としてメモを残すことに私は必要あるのかと考えてしまう。
もしも自分自身がアイドル(偶像)だったり、芸能人、そして最近だとVTuberなどのジャンルに所属しており、崇拝的される立場だとしたら追い求める人はいるのだと思うが、実際なんの変哲もない人間が文字として残したところで需要はあるのかと思ってしまうだろう。
ジャンルにこだわったブログとしての有用性
プログラミングならばプログラミングオンリーのブログ、食べ物だったら食べ物を紹介するブログ、Amazonや楽天の安い商品を紹介するならばそれに特化したブログなどと、GoogleやAIに訊いてもそうしたほうが良いといわれる。
しかしながら別にアフェリエイトして稼ぎたいわけではないし、大体の人は「検索」して理想の答えが出てこなければ「一期一会」になってしまうことが多い。「動画」とは違って「文字」とは理想を追い求めるツールであり、我がままにジャンルに拘らず書いたほうがいいのではと思ってしまう。
行動した日記を書いてて面白いのか?
昨晩は世間的に言うと「クリスマス(12月24日)」でしたが、私は仕事でした。
強いていえばラーメン屋にて「クリスマス」だから「肉」を食べる。いつもはチャーシュ一枚で満足するけども、やはり普通のことにしたら面白くないだろうということで奮発して「チャーシュ一二枚」にしました!!という記事しかたぶん書けないだろう。そんなことを続けて誰が見るのか?というのが想像できてしまい書けない、私はどちらかというと自分だけの思い出として記憶をする。
人によっては「同じ行動をしたい」と思う人も出るだろう、 ( #自分の人生を赤裸々にする必要性 ) で説明した通り、少なからずいるものだが…私は遠慮をしとく。
優位点
文字として残すこと
もしも自分で書いた文章だとしたら「癖」になるほど見直すことはあるだろう。というのも、過去を投影するよりも言葉使いがきちんと出来ているか?変な言い回しになってないかと確認をすることが多々あるからだ。
なぜならば、書いた文章というのはその場では判断ができない。一つひとつ書き直し続けていっても何かしらの問題点はあるからである。
その点では「文字を残す」ということで「見返す」という作業になり、より良い自分への投資になるのかもしれない。
なにかの問題点に対応
ニューヨークの発電所で対応を知らなかった人が、一つのブレーカーをOFFにしたことにより、1ヶ月間ニューヨークの街が真っ暗になってしまった。(( ニューヨーク大停電 ))の事案があるように、メモを取るということはもしも同じようなことがあっても対処が出来るということである。
ただしインシデントが起きる確率というのは1%としか満たないというが、そのインシデントを引く確率というのもサイコロの100面ダイスで1を引く行為(ファンブル)と同じものであるという。
なので、嫌々でもブログを書く行為というのは自分や、もしくは他の人に取って必要になることとして心に止めておくと、もしかしたら楽になるのかもしれない。