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現在の WEB は実生活の直線上に存在する。

1990年代のWEBというのはPCを持っている人も少なく、夜中にテレホタイムじゃないと高額な支払いになるほど手が出ないものであった。それが今では、いつどこでもスマートフォン片手に調べられるツールとして活躍するネットワークとなった。ただ時代が進むがゆえに重要なことが消えゆく状態になっていることも考えなければならない。

古来のネットワーク

ネットワークが作られた初期としては、Web1.0 みんなが色んなホームページをつくり、作品を紹介したり「研究論文」を掲載したりする。図書館のような情報を交換しあうネットワークであった。好きなものを共有し合ったり情報のために調べ上げる時間のかかるものであったが、大衆には触れにくい情報のツールであったがために情報の正確性は高かった。

2000年代

2000年代 テレホタイムから定額ネットワークに変わり、庶民でも購入できるXPが出てきたところから「掲示板」「チャット」などの Web2.0 の幕開けが始まった。ただ触れることが出来なかった、一般人が急に閲覧始めるとどうなるのか?

それは、ネットの手引きも知らない人がネットを通して討論をし始める。そうすると自己意識と考えが一致しない状態になると暴れたり(荒らし)暴言を吐くようなデモンストレーション(ネット運動)になることだろう。そういうネットの手引きを知らない人(新人さん)にも解るように、この時代に生きてきた人は「 ネチケット 」をまず閲読しろと口をそろえて言うほど重要なものであった。

2010年代

2010年代 スマートフォンというのが発売され、ネットワークでは「ニコニコ動画」「FaceBook」「Twitter」などのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の幕開け、色んなクリエイターや情報を共有し合えたり評価できる時代としてネットワークでは過渡期を迎えた。ただ手を片手にネットワークを繋げられるスマートフォンの登場によって情報というのはオーバーフローを起こし、創世記ネットワークに培った「情報の正確性」というのは崩壊した。

ただ、「全ての人が情報を伝える術を持っている」というのは悪いことではない。

アメリカの「 アメリカ同時多発テロ事件

日本の「 東日本大震災

このような状態で情報共有の重要性、ソーシャルメディアをつかった緊急事態の速達性など「電話」しかなかった状態から「文字・画像・動画」で伝えられる優位性は少なからず後世でも必要なことである。

2020年代

2020年代 情報というのは「自分から探すもの」から「勝手に流れてくるもの」に変わってきている。強いて言えば「広告文化」でありTVで流れくるCM(コマーシャル)のように紹介する文化に変化をしつつある。

こうなってくると危惧するのが「情報の強要」という文化である。

今までは自分から選んで取捨選択できる状態から、次に、紹介情報(広告動画)(紹介マンガ)などを目を通さなきゃいけない時代に変わってきている。それが自分自身に必要なものか不必要なものかは人それぞれであるが、少なからず頭の中には… 「そう言えば、こういう情報あったなぁ」という意識に変化はあるだろう。

しかしながら「自分を紹介する」という点では、この時代は良いかもしれない。

未来のネットワーク

未来から来た人間ではないので想像は出来ない。しかしながら「AI」の登場や「個人ウェブサイト」への縮小化「大手サイトの優位性」そして、ソーシャルメディア情報の分別化を鑑みると『情報の戦争』というのが始まるのかもしれない。

情報の戦争

強いて言えば「オープンネットワーク」から「センサーシップネットワーク(検閲)」になりつつあるだろうということ、なりつつ・・・というかなっているのであるが何故なのかと詳しく調べる人というのは少ない。

例えば、愛読している新聞やテレビなどを見て情報を知る人は多いだろう。

でも、その記事内容について新たに情報を調べるか??

ほとんどの人は、流れてきた情報を鵜呑みにしてしまい、調べる必要性というのを捨ててしまう。「それなら、新たに調べれば良いのか?」 それが出来ないのが今の「センサーシップネットワーク」なのである。

「センサーシップネットワーク」

手に入れた情報が嘘偽りもなく正しい情報というのは「無い」と言ってもいいほど情報に偏りが生まれている。雑誌の世界では「スキャンダル」という言葉がお似合いだが、情報の速達性を優先させるがゆえに「自己討論な記事」 や 「偏見報道」などを助長している。

ニュースサイトや個人のブログなどで騒いでるならばまだしも、最近では情報の統一性を重要視していた検索サービスなどでも、情報の偏り(最新記事のみ)や人気コンテンツへの強調など、情報が津々浦々あるネットワークから、固定化されるネットワークへと変化している。

AI

Chat GPT や Bard などの登場により変化するだろうと思われるAI世界 1950年代に「AI」というのは生まれるだろうと色々な作品 「ドラえもん」「スタートレック」「2001年宇宙の旅」などと人間の言葉を補完するものやロボットやアンドロイドとして表現されていた世界観だったが、出来たとしても2100年、早くても2050年となっていた。ところが、今年2023年 様々なAI技術が発生したと考えると、今後情報を統括したりするのは「AI」になるのでは無いかと感じる。

「ただ人間はどこまで正しいアンドロイドAIを作れるのか?」

人間が子供を教育するように「AI」は貰った情報を教育し勉強をする。絵の具を持たせれば塗るし、ピアノを弾かせれば曲を弾くようになる。

だが、AIに喧嘩をするように躾をしたら「喧嘩する」ようになってしまう。

人間味があるといえば、人間味がある「AI」として評価はされるだろう、しかしながら「人間の仕事」を「AIに任せる」というのは危惧すべきなのではないか?

AIの姿としては「様々な情報を一つではなく賛否両論、複数集めるような情報ツール」「言葉の対話の中に平等な意見として呟く、聖徳太子のようなツール」などのような情報社会になれば頼もしいかもしれない。

現在のネットワーク

今のネットワーク文化としてしなければならないことと言えば、「情報の取捨選択」が必要な時代であるということ、「特定個人が評価され強調される」文化であること。「デジタルの波にのまれアナログの砂場」に帰ってこれなくならないことが重要なのかもしれない