Blog をタイトルから始める人はクリエイティビティか
自分は結末を考えない人なので、ダラダラと自分の思ってることを述べていくクリエイターなのですがブログや雑誌・書籍などとある程度決まった内容を文章にして流し込むことが出来る人って本当に凄いと感じます。今回、そうなられた理由を夏目漱石の「吾輩は猫である」を含めて話していきたいと思っております。
タイトルから始める人はクリエイティビティ
「タイトルから始める人はクリエイティビティ」というのは「読者をその世界観にのめり込ませるのが上手い人」のことを指すような気がします。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」 - 夏目漱石
吾輩は猫であった、名前はまだない、ニャーニャーなくだけで何も伝わらない。兎にも角にも居候させてもらってるが居たら居たで何かしら問題が起こる。
この場合は人間でもない、自分は「猫」という存在から問いかけており、人間というのは「劣悪極悪人」で度し難いものだ!しかしながらこの人間はなぜ吾輩を優しくしてくれるのだ?と猫から見た目線と人間からの心理的状況を併せた作品です。
なぜ、タイトルを重視するのか?
一つは膨大な情報を読むことに長けていないから
二つは世界観を大切にするから
三つはその情報が本当に自分に欲しい物なのかどうか
膨大な情報を読むことに長けていない
一般人の識字力としては、句読点が2個3個ついただけでも読む気が減る。Twitter(X)では140文字と設定されているが、これは英文で140文字というのは "He was talking about cats as write. (37)" 日本語だと「彼は猫について書いていた(13)」となり、英語と日本語の縮小率はおおよそ30% 140文字でできた文というのは、420文字の英文法を読まされてると同じわけで、そう考えると長文を読むのが怠くなるのも分からなくはない。
世界観を大切にするから
文章を読むということは「タイトル」もしくは「キャプション(前説)」の世界観を維持して読んでいく、主点が「猫」だったのに急に「犬」になっても困るだろうし、ましては急に「人間視点」になられても読み手はこんがらがるだけだ。
なのでタイトルから逸脱しない内容というのは大切です。
その情報が本当に自分に欲しい物
もしも「劣悪極悪人」を知りたければ 「羅生門(芥川龍之介)」 を読んだほうがいいだろうし、人間からの心情を知りたければ「雪国(川端康成)」などを読んだほうがよいだろう
夏目漱石の「吾輩は猫である」を読むにあたって、どういう心情で読み始めたのか。猫になりたかったのか、それとも他者からみる視線というのはどういうものなのかを知りたかったのか人によっては理由は様々だが、タイトルというのは作者の想い。感情から来ているのでそれがマッチするかは「タイトル」「キャプション」次第なのではないだろうか?
タイトルから始めない人はクリエイティビティじゃないのか?
そういう訳では無い。美術的作品の多くはタイトルをシンプルにしたり、キャプションを抜いたりして「あなたはどう思いますか?」という意識を重要視するだろう。
もしも 「ジャクソン・ポロック」 の絵をみたとする。あなたはどう思うのか?
「たんなる落書きじゃない」と思う人も正解、
「この線が怒りを表現している」と思う人も正解。
世の中の出来事を作品に投影しているのではないのか?と思う人も正解です。
美術というのは「顧客に問題を問いかける」ような状況が多いので、あなたがつける「タイトルとは?」と問いかける形になるでしょう。
結局、どこが重要なのか
夏目漱石もそうだが、こういう小説を読んでいて思うことは読み手にその主人公に投影させて意見を求めること多い。なので基本的には他視点からみた文章を考えると読みやすいのかもしれない。ただし、他視点にこだわりすぎると自分の言いたいことが言えなかったり長々と説明に説明を重ねてしまうようなスパイラルが発生するので、そこは弁えたほうがいいのだろう。